谷内六郎館

谷内六郎館

谷内六郎(1921-81)は家族と共にたびたび横須賀を訪れ、1975年には観音崎公園にほど近い場所にアトリエを構えました。そうした縁から、1998年に遺族から『週刊新潮』の表紙原画約1300点をはじめとする膨大な数の作品や関連資料が寄贈されました。当館では年4回開催するテーマ展示を通じ、谷内六郎の作品をさまざまな視点から紹介しています。

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作品紹介

代表作である『週刊新潮』表紙絵には、昭和の懐かしい風景やいきいきとした子ども達の様子が、谷内六郎ならではのユーモアを交えて描かれています。表紙絵は不透明水彩を使って描かれていて、中には実物の網やレース、砂などを使った作品があります。谷内はこれらの素材を直接画面に貼り付けたり、絵具と混ぜたりして、テーマに合わせてさまざまな表現を試していました。表紙絵には1枚につき約400字の「表紙の言葉」が残されていて、展示では「表紙の言葉」も併せて紹介しています。

《上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある》 1956(昭和31)年 ©Michiko Taniuchi
《タネを吹く子》 1960(昭和35)年 ©Michiko Taniuchi
《なかなかどかない》 1971(昭和46)年©Michiko Taniuchi
《光を使う燈台の子》 1977(昭和52)年©Michiko Taniuchi
《ドックの祝日》1976(昭和51)年3月25日号
谷内六郎は、家族と共にたびたび横須賀を訪れ、1975年には観音崎公園にほど近い場所にアトリエを構えました。 アトリエに滞在しながら『週刊新潮』の表紙絵を描いていたようで、《ドックの祝日》もそうした表紙絵の一つです。 谷内が表紙絵についてまとめたエッセイ「表紙の言葉」には、本作について「浦賀ドックのわきにあるお寺のある山からスケッチしたものをもとにして描いた」ことと、浦賀水道を出入りする様々な船に心惹かれている様子が書かれています。
©Michiko Taniuchi

谷内六郎の得意料理「いくらでもスープ」を横須賀市立小中学校や特別支援学校の給食として提供します

《霧のミルクも来てた》1970(昭和45)年4月11日号
横須賀ゆかりの画家・谷内六郎をより多くの児童生徒に知っていただくため、今年も、2024年12月2日~5日に横須賀市立小中学校や特別支援学校の給食として、谷内が家族のためにつくっていた得意料理「いくらでもスープ」を提供します。 肉とありあわせの野菜をバターでいためて牛乳で煮込んだスープは、おいしくていくらでも食べられることから、家族が「いくらでもスープ」と名付けました。今回のメニューは、横須賀市の学校食育課が、このスープのエピソードと《霧のミルクも 来てた》という作品を思い描きながら、献立にしたものです。 中学校では、いくらでもスープに加えて《リボンについてくる蝶》をイメージした菜の花サラダも提供します。

【参考】昨年の給食配膳風景を、谷内六郎館FBの投稿でご覧になれます。
外部サイト 
©Michiko Taniuchi

作家紹介

『週刊新潮』500号記念展覧展で公開制作した
《里の秋》とともに
1965年、池袋・西武百貨店
谷内六郎(1921-1981)

1921年東京恵比寿に9人きょうだいの6男として生まれる。小学校卒業後、新聞雑誌に漫画や挿絵を投稿し始める。1952年頃から兄が経営する染色工房「らくだ工房」でろうけつ染めのハンカチや帯などの布製品を制作する。1955年第1回文藝春秋漫画賞を受賞。翌年、雑誌『週刊新潮』の創刊と同時に表紙絵を描くこととなる。1971年に横須賀市の観音埼灯台で1日灯台長をつとめ、1975年には横須賀市にアトリエを構える。広島の呉市広中央中学校養護学級「たけのこ学級」や静岡県の「ねむの木学園」と交流し、福祉活動にも力を注いだ。1981年1月に急性心不全のため亡くなるが、その時点で『週刊新潮』表紙絵は1303枚となっていた。その後、未発表作品などでこの年の最終号まで表紙を飾ったため、合計は1335枚となる(創刊号の原画を再使用した通巻1000号は除く)。谷内は25年の間表紙絵を描きつづけ、表紙を飾った期間は足かけ26年にわたる。

<谷内六郎 紹介動画>
谷内六郎の生い立ちから『週刊新潮』の表紙絵を描くようになるまで、横須賀との関わりを紹介した動画です。
※動画には、谷内六郎館のほか、2021年に横須賀美術館本館で開催した「生誕100年 谷内六郎展」の展示風景も含まれます。